ナガサキアゲハ
― シーボルトの黒いアゲハは、なぜ北へ広がったのか
尾状突起のない、大きな黒いアゲハ。メスは後翅に白い紋をもち、はっとするほど目を引きます。ナガサキアゲハ——その名は、江戸時代に長崎の出島にいた博物学者シーボルトが持ち帰った標本に由来するといわれます。かつては「南の蝶」の代表でした。
ところが、この蝶はいま関東の住宅地でふつうに見られるようになっています。100年のあいだに、分布の北のふちが大きく動いたのです。
記録がたどった、北への道のり
残された記録をつなぐと、北上の足どりがくっきり見えてきます。
1920年代までは九州・四国の南部まで。1940年ごろから分布が広がりはじめ、1980年ごろに近畿、2000年ごろに中部、そして2010年ごろには関東で定着——。近年は福島県や宮城県でも記録されています。
関東での増え方は急でした。2007年には茨城県南西部で多数が、2009年には栃木県南部で急増が確認され、同じ2009年には福島県いわき市で幼虫、伊達市や宮城県名取市で成虫が見つかっています。「南の珍蝶」から「近所の蝶」へ、ほんの十数年での変化です。
なぜ北へ行けたのか
鍵はやはり冬の気温です。ナガサキアゲハは蛹で冬を越しますが、寒さがきびしいと越冬できません。冬季の気温が上がったことで、越冬可能な地域が北へ広がったと考えられています。加えて、幼虫の食草であるミカン科——ユズやナツミカン、庭木のサンショウや、生け垣に使われるカラタチなど——が人の手で各地に植えられていることも、北上を後押ししたとされます。
こうした分布の変遷から、ナガサキアゲハは地球温暖化の指標種として、研究者や市民調査で広く注目されています。クマゼミやツマグロヒョウモンと並ぶ、「気候が変わったことを、足もとで教えてくれる虫」の一つです。
「いつ・どこで」は、標本にしか残らない
北上のような変化は、毎年少しずつ進むため、見ているだけでは気づけません。「2009年に、いわきで」「その年、名取で初めて」——こうした一つひとつの記録が積み重なってはじめて、地図の上に北への矢印が浮かび上がります。そしてその「いつ・どこで」を確かな証拠として残せるのは、採集された標本のラベルだけです。
あなたの標本箱に、北の県で早い時期に採れたナガサキアゲハはありませんか。それは、この蝶の歩みを語る決定的な一点になるかもしれません。
ナガサキアゲハでも、ほかの南方系の蝶・トンボでも。一件公表すると、みんなの分布図に年代色の点として加わります。
分布図を見る・記録を公表する出典・参考:気候変動いきもの大調査「シーボルトが見つけたチョウ ナガサキアゲハが北上中!」、国立環境研究所 地球環境研究センター「チョウの分布域北上現象と温暖化の関係」、Wikipedia「ナガサキアゲハ」ほか。年代・地名は概説のための代表例で、地域差があります。検証にこそ皆さんの記録が役立ちます。